挫折から起業へ、経歴をインタビューされました
キャリアコンサルタントの藤戸寛子さんがインタビュー記事サービスをやっていることで、お願いし、僕の昭和時代から振り返って頂きました。すっかり忘れていることが多く、「自分とは何か?」「起業は簡単じゃない」の新たな気づきを伝えていこうと思いました。
>インタビュアー藤戸
本日はよろしくお願いします。
>玉那覇
よろしくお願いします。
◆沖縄、学生時代
>インタビュアー藤戸
これまでのご経歴をお聞かせいただきたいのですが、玉那覇さんは沖縄県のご出身で、那覇市にお生まれになったそうですね。
>玉那覇
はい、そうです。両親、兄、妹の5人家族です。子供の頃は兄と一緒に野球をやっていたのですが、小学校4年生のときにアニメ「キャプテン翼」を見て、それまでやっていた野球をやめて兄と妹と一緒にサッカーを始めました。サッカーはその時から高校を卒業するまで続けてきました。
>インタビュアー藤戸
大学は地元の琉球大学に進学されたのですね。
>玉那覇
そうですね。沖縄が大好きだったことと、友達もいたので地元を離れることは全く考えていませんでした。理系が得意だったため、工学部の電気電子工学科に進学しました。大学生活はとにかくアルバイトと論文を書くことに忙しかったですね。
>インタビュアー藤戸
IT系に目覚めたのはいつ頃ですか?
>玉那覇
大学4年生のときです。研究室にあったパソコンと出会いました。ちょうどマッキントッシュが出た頃で、その操作性に驚きはまってしまいました。これがIT系に興味を持つきっかけでした。
>インタビュアー藤戸
パソコンに魅了されてしまったのですね。そうすると、新卒で入社した会社はIT系だったのですか?
>玉那覇
担当の教授から大学院への進学を勧められたのですが、私は働きたかったので就職することしか考えていませんでした。電力系の研究室に所属していたため、教授の推薦もあって電力会社に入社する予定でした。当時、電力会社の面接は8月だったのですが、その前に他の企業も受けておこうと思い、最初に面接に行った会社が日本シノプシスでした。面接は東京であったのですが、初めての東京にとにかく圧倒され驚きました。そして、日本シノプシスは時代の最先端技術である半導体の開発だったこと、興味を持ち始めたコンピューターの仕事だったこと、そして2年後には沖縄にデザインセンターを作り沖縄に戻れることがわかり、「ビビっ」ときて入社を決めました。
◆1社目、いざ東京へ!外資
>インタビュアー藤戸
地元の電力会社から気持ちが大きく変わったのですね。日本シノプシスではどのような仕事をされていたのですか?
>玉那覇
半導体の設計、プログラマー兼営業技術の仕事です。最初はプログラミングをやっていたのですが、SEになって営業同行するようになりました。そうこうしているうちに辞令がでて、アプリケーションの使い方を大学の研究所の教授やそこの学生に教えるインストラクターになりました。
>インタビュアー藤戸
「教える」ことのスタートですね。ここでの仕事はどうでしたか?
>玉那覇
インストラクターになって全国あちこちに出張に行って教えることにやりがいがありましたね。自分の母校にも行きましたよ。新しい人、新しい場所など、とにかく新しいことへの出会いが楽しかったですね。
>インタビュアー藤戸
ご自身で考えて行動し、新しいことに挑戦できる環境は玉那覇さんに合っていたのですね。それがどうして3年で辞めようと思ったのですか?
>玉那覇
2年経ったら沖縄に戻る予定でいたのですが、9.11によって半導体バブルが弾けたことで事態が大きく変わりました。沖縄にデザインセンターを作る話もなくなってしまいました。仕事は1人ですることも多く、もっとたくさんの人に関わりながら仕事をしていきたいと思うようになったのです。
◆2社目:純日本企業へ
>インタビュアー藤戸
それで松下(現パナソニック)に転職されたのですね。
>玉那覇
はい。そこではみんなで一緒に協力して仕事のできる環境がありました。新しく立ち上げたプロジェクトチームだったのですが、所長以下7人のチームは一体感があり切磋琢磨できましたね。
>インタビュアー藤戸
どんな仕事だったのですか?
>玉那覇
製造業向け動画によるマニュアル作成ソフトウェアに関する仕事です。開発から顧客に操作の仕方を教えるところまでの全ての工程を任されていました。社内でも珍しく業務が分業化されていない部署で仕事のやりがいもあってとても充実していました。
>インタビュアー藤戸
ここでの仕事で印象に残っていることはどんなことですか?
>玉那覇
いろいろなことが印象に残っていますが、日経BPに発表した論文が最優秀賞を受賞したことです。
>インタビュアー藤戸
凄いですね!どうして論文を書くことになったのですか?
>玉那覇
当時の所長から、ここで開発したことを論文に書くようにと言われました。まだ入社して1年も経っていませんでしたが、チームで試行錯誤してきたことを論文にまとめました。受賞後チームを代表して記念講演で300人くらいの聴衆の前で発表をしました。
>インタビュアー藤戸
いろいろな経験を積むことができたのですね。
>玉那覇
そうですね。仕事はもちろん楽しかったのですが、仕事の進め方や組織、人との関係の築き方について多くのことを学ぶことができました。何より自分自身の人間力が高まったと思います。人との関係の大切さを上司や周りの人から見せてもらうことができました。これはとても大きな財産になりました。
>インタビュアー藤戸
とても充実していたようですね。それがどうして会社を辞めることになったのでしょうか。
>玉那覇
心のよりどころでもあった尊敬していた上司2人が退職されました。もちろんそれが理由ではありませんが、部署が解体されることになったのです。それで退職をすることにしました。
◆3社目:宇宙科学ソフトの営業
>インタビュアー藤戸
そのような経緯があったのですね。そしてジクー・データシステムズに入社されたのですね。
>玉那覇
そうですね。今はもう存在しない会社ですが、三菱商事の子会社でした。松下とはまた違う雰囲気でしたね。宇宙サイエンス系のプログラミングソフトを大学や研究機関に向けて営業をしていました。
>インタビュアー藤戸
これまでとは違った面白さがありそうですね。
>玉那覇
そうですね。宇宙サイエンス系といってもとても幅広く未知の世界で新しい知識を学ぶことができました。研究機関の先生方は非常に能力が高く、話しについていくために先生方の研究内容を調べて勉強しました。そのような先生方との会話を通して、アイデア力や発想力を身につけることができました。
>インタビュアー藤戸
知的好奇心が刺激されたわけですね。好奇心が満たされる仕事を辞めるきっかけは何だったのですか?
>玉那覇
扱っていたソフト(海外のソフト)の契約が終了し販売できなくなってしまったのです。別のソフトを扱うことになったのですが、会社もなくなることになり転職をすることになりました。
>インタビュアー藤戸
版権の継続をしなかったのですね。
◆2010年、会社員を卒業
>玉那覇さん
それでまた転職活動をしました。すぐに2社から内定を得ていたのですが、どちらに入社するのか奥さんに相談したところ、奥さんの実家家業の不動産会社で困っていることがあるので手伝って欲しいと言われました。それで2社を断って不動産会社(義父社長ふくめ4人)に入社することになりました。ジクー・データシステムズでサラリーマン生活を終えました。
>インタビュアー藤戸
サラリーマン生活を総括していかがでしたか?
>玉那覇
サラリーマン生活を経験してよかったですよ。仕事だけでなく人間関係や企業でなければできないことなど、いろいろなことを学ぶことができました。よい修行ができたと思います。起業をするのであれば、サラリーマンを経験することはお勧めですね。
◆家族で不動産経営
>インタビュアー藤戸
充実していたサラリーマン生活だったのですね。いよいよ話題の不動産会社ですが、いったいどんな状況だったのですか?
>玉那覇
不動産会社にいた部長(家族とは関係のない第三者)が経理全般を握っていたのですが、その部長と会社間でゴタゴタがありました。時間はかかりましたが、定年という名目で会社を辞めてもらいました。すると会社も安定し売上げもどんどん伸びていきました。そこからですかね、、、お金が入ってくると人が変わってくるのでしょうか。次期社長として入社しましたが、仕事を解雇されて家から追い出されたのです。
>インタビュアー藤戸
それは衝撃的ですね。不動産会社の時に起こったことは玉那覇さんがご自身のホームページにも詳しく書かれていますが、そのような経緯があったのですね。話を先に進めますが、不動産会社を解雇された後はどうされていたのですか?
◆家業解雇後、ネットビジネス
>インタビュアー藤戸
充実していたサラリーマン生活だったのですね。いよいよ話題の不動産会社ですが、いったいどんな状況だったのですか?
>玉那覇
不動産会社にいた部長(家族とは関係のない第三者)が経理全般を握っていたのですが、その部長と会社間でゴタゴタがありました。時間はかかりましたが、定年という名目で会社を辞めてもらいました。すると会社も安定し売上げもどんどん伸びていきました。そこからですかね、、、お金が入ってくると人が変わってくるのでしょうか。次期社長として入社しましたが、仕事を解雇されて家から追い出されたのです。
>インタビュアー藤戸
それは衝撃的ですね。不動産会社の時に起こったことは玉那覇さんがご自身のホームページにも詳しく書かれていますが、そのような経緯があったのですね。話を先に進めますが、不動産会社を解雇された後はどうされていたのですか?
>玉那覇
アフェリエイト(情報商材の代行販売業)で生計を立てていました。アフェリエイトは以前から少しずつやっていたのですが、片手間だったので収入も月1、2万円くらいでした。2014年から専念してやりはじめるとすぐに月収100万円になりました。YouTubeをネットビジネスでやっている人が少なく、出始めだったのでタイミングも良かったと思います。スタートダッシュで4ヶ月くらい100万円の収入が続いたのですが、その後はゼロ円で年収400万円でした。毎月の収入が0円というのは心臓には良くなかったですね。
>インタビュアー藤戸
無収入期間が長くなると不安になりますよね。
>玉那覇
そうですね。家族との問題(義理のご両親が経営されている会社を中心とした家族関係)やアフェリエイトの収入不安定さから、何とかまともな生活に戻そうと思っていたときにアドラー心理学に出会いました。それがきっかけで心理学協会の門を叩きました。また生活を立て直すためにIT業界に戻って仕事をしようと思い転職活動もしましたが、ブランクを理由に仕事が見つかりませんでした。
>インタビュアー藤戸
それからどうされたのですか?
◆心理カウンセリング時代
>玉那覇
仕事がないのだったら自分でやろうと思いました。それで心理学協会で民間の心理カウンセラーやコーチングの資格をとってカウンセリングの仕事を始めたのですが、これが全く収入になりませんでした。そうこうしているうちに貯金も底をついてしまいました。借金はしませんでしたが、経済的にも精神的にも健康的にも厳しい時でした。インスタントラーメンを4分割して食べてしのぐ、そんな苦しい状況にあることを誰にも言えずどんどんメンタルも病んでいきました。人生のどん底にいたときに、ある心理学協会から生徒にITスキルを教えて欲しいと頼まれました。
>インタビュアー藤戸
大変なご苦労があったのですね。心理学協会からの依頼はまさにピンチはチャンスでしたね。生徒だった玉那覇さんにどうして声がかけられたのでしょうか?
>玉那覇
自己紹介の時に、「YouTubeのアフェリエイトで200万回くらいの再生回数があります」と話したことを協会代表の方が覚えていたようです。SNSが活用され始めた頃で、その知識やスキルを持っている人がいなかったので白羽の矢がたったようです。
>インタビュアー藤戸
そうだったのですね。確かにその頃はSNSに詳しい人が少なかったですよね。得意が活かされた瞬間ですね。「教える」ことをやってみてどうでしたか?
>玉那覇
生徒に「玉ちゃん先生」と親しまれ、自分が必要とされていると感じるようになりました。そこからポツポツと自分の状態や不動産会社での出来事など、自分にとっての負の遺産をみんなに話せるようになりました。自分の格好悪いことを話すようになったことでかえって受講者の方々との距離が近くなりました。
>インタビュアー藤戸
それは大きな転換でしたね。気持ちがほぐれてきたことで素の自分をさらけ出せるようになったのですね。
>玉那覇
そうですね。ここからいろいろなことが吹っ切れましたね。それまでは「理系の左脳派」という格好つけた自分だけを見せていましたが、弱さを見せたことで受け入れられたのだと思います。
>インタビュアー藤戸
なるほど。そこで一皮むけて新しい玉那覇さんに生まれ変わったのですね。ところで、
同じ時期に日本マーケティングコンサルタント協会の理事と恵比寿ソーシャルアカデミー代表をされていましたが、どのような関係があったのですか?
>玉那覇
今はやっていませんが、アフェリエイトの収入を増やすことを目的に日本マーケティングコンサルタント協会の代表の方に誘われました。恵比寿ソーシャルアカデミーは心理学やコーチングをソーシャルメディアで教えるスクールとして立ち上げました。心理学協会で教えたことをきっかけに、口コミで広がり全国のあちこちで教えるようになりました。噂で広がった先の1つが「まちbiz(横浜たまプラーザにあるビジネスコミュニティ)」でした。現在は協会を離れ「まちbiz」のご縁で横浜たまプラーザに拠点を移し、WEB教育事業スクール&コンサルティング(たまナビ・アカデミー)を行っています。
◆伝え人(伝え美道)の育成
>インタビュアー藤戸
心理学協会は今の玉那覇さんの原点なのですね。玉那覇さんはいつもニコニコ明るく相手の気持ちに寄り添ってくれますが、生徒さんからはどのように評されていますか?
>玉那覇
一緒に話をしていると、前に進みたくなる気持ちを持たせさてくれる人だと言われます。IT系だけど話をしやすいとも言われます。生徒さんの中にはやりたいことが決まっていても一歩踏み出せない人がいます。不安になる気持ちはわかりますので、そんな時には最初の一歩を一緒に踏みだすこともあります。日本人が本来もっている言霊学を学び天命を発見することもしています。自分の生まれた意味、目指す方向性はすぐには分からないです。魂の「回帰」と時代の「最先端技術」をミックスさせた情報をいち早く伝えて、たくさんの人がキラキラと輝いていけるようにサポートしていきたいと思っています。実現のため、従来の資格発行団体や協会ビジネスにあった縛りを取っ払った団体「ハーモニーブレイン」を設立予定です。過去の経験と知識は誰かの社会貢献になる「伝え人=伝え美道(Vidou)」を増やしていきます。
>インタビュアー藤戸
たくさんのお話ありがとうございました。玉那覇さんの強みは、新しい情報をすぐにキャッチし、試してよかったらすぐに伝えていくスピード感、そして、一人一人のレベルに合わせてわかるように説明できる力、好奇心旺盛で行動力の高さと感じました。最後にあらためて今日は長時間にわたってありがとうございました。
>玉那覇
ありがとうございました。
◆「プロフィール」ページもご覧ください
0コメント