自分のルーツを探る(2)先祖と地名からを自分を観る
前回(1)の続きです。
苗字・名字研究プロの方からメッセージを受け取りました。
苗字の由来と思われる地名「玉那覇村」についての解説です。
<玉那覇>父方の苗字
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〇王府時代の村名島尻方南風原【はえばる】間切のうち方言ではタンナハまたはタンナファという
〇「歴代宝案」には尚円王代(1470~76)に談瑪巴とある「高究帳」では玉那波村と見え,高頭119石余うち田86石余・畑33石余大屋腹の元祖玉那覇大屋子の創始した村と伝えるが,この伝承には北谷【ちやたん】間切の金満按司系の伝承が混入している
〇尚徳王代(1461~69)以前の村立てと考えられる
〇「由来記」照屋村にある玉那覇ノロの崇べ所アヘダノ嶽は,安平田子の屋敷跡で,玉那覇ノロの立始め真鍋が父親の屋敷を拝んだのが慣例化したものと推定されている
〇「由来記」の玉那覇村の項には玉那覇ノロ火の神・里主之殿があり,玉那覇ノロの祭祀玉那覇ノロは,照屋村・津嘉山村の祭祀も司ったのち津嘉山村の一部となる
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→ 本州でいう室町時代ごろ、琉球王朝のときにすでに「玉那波」の地名があった。
→ 玉那覇大屋子という人物が元祖。
→ 沖縄の女性神官である「ノロ」は琉球士族の家柄と強く結びついたが、玉那覇ノロという女性神官がいた。
https://kazusaeki.amebaownd.com/posts/8097159/
によると、
「別の資料では、真呉勢は津嘉山の玉那覇村の大屋子 [村役人] に嫁ぎ、玉那覇ノロとなったとある」
→まこせ、という女性が玉那覇の役人と結婚して玉那覇ノロとなったとのこと。
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「角川日本姓氏家系大辞典」では
”明治初年の本島士族には、童「長」・成「全」・任「忠」・思[豊』・貧弱「盛」・明「長』・葉「兼一・毛「盛」・胡「正」・周などの氏に、玉那覇を称した家がある。”
とあり、それぞれの玉那覇さんたちが「全部同一の系統ではない」とも考えられます。
ただ、基本的には琉球士族の系統の苗字と考えて差し支えないでしょう。
<大城>母方の苗字
奥武島の大城さんたちも古い系統のようですね。
「東恩納寬惇」という人の書物にこんな話が載っています。
「享保十四年(尚敬十七年)玉城間切奥武島の大城と云ふもの、島民を率ゐてこの附近に水田を拓き毎年二石五斗の収穫を収め(球陽)、これより附近の小字となれり。」(全集第7巻)
享保年間は、江戸時代で、徳川将軍吉宗の頃ですが、この時すでに「大城」を苗字として名乗る人物が水田を開拓し、この地が「大城」と呼ばれるようになった、とあります。
近辺に「大城按司」の墓もあるようなので、
https://www.kankou-nanjo.okinawa/bunka/details/560
この系統かもしれません。
按司とは地方の領主、豪族を意味します。年代的に古く、琉球王国が統一される前の地場の権力者、というニュアンスです。各地の按司たちの中から、競い合って一番強かった一族が、琉球王朝を作り上げてゆく、という流れです。
沖縄では「グスク時代」という各地の領主が争った時代が長く続きました。
大城城についての解説がありました。
https://17020526.at.webry.info/201512/article_10.html
”大城按司真武は、琉球に蕃薯(はんす・サツマイモ)の栽培法を広めた儀間真常(1557年~1644年)の祖先であるとも伝承されている。”
→おそらく奥武島の大城氏は、これらの大城一族の出ということかもしれません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%AD%A6%E5%B3%B6
実は「奥武島」というのは沖縄にたくさんあるそうです。御家に関係があるのは、
「 沖縄本島南部にある島で南城市玉城(旧玉城村)に属する。」
だと思います。
もっともっと古い時代には「葬送の島」ということだったようで、死者を弔った島なので「おうしま」と呼ばれたとの説。しかし、江戸時代には「大城」一族が開拓に入っているので、のちの世にはその島で新田開発をした、ということだと思われます。
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今回はここまで。興味深い話ばかりです。
次回は「玉那覇」が警察だという仕事面についてです。
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